さんようおのだ
・ 山陽小野田市が毎月2回発行している広報紙です。
今月号にはシティセールスマン?として、私の原稿が掲載されています。
・ 私の原稿を拡大してみました。文字数に限りがあるので、
詳しく載せられませんでしたが、少し解説しておきます。
吉田松陰は「公武合体派」という、朝廷と幕府が協力して事にあたる
方針を支持していたのですが、後に出会った勤王(討幕)僧、柳井市遠崎の
浄土真宗・妙円寺月性や、呉市の真宗僧侶・宇都宮黙霖らに影響されて
「倒幕派」に傾いていきました。この二人の影響がなければ、
歴史は変わっていたかも知れません。
なお月性の私塾「清狂草堂」からも倒幕で活躍した多くの人物がでています。
長州において倒幕論を唱え、大きな影響力を与えたのは
月性(げっしょう)であり、松陰を倒幕派に傾けたのは黙霖(もくりん)だと言われています。
(なおこの資料は、文献的にも貴重なものでありながら、広く知られていないため正確性を記すため、所蔵者である浄慶寺15代上坂信知住職のアドバイスを受けました。)
・ (次の方を紹介して、バトンをつなぎます。)
この12代勝海住職は千代田高女(東京)の設立者、島地黙雷より、
千代田高女の理事を任じられ勤続40年の業績がある。
また杉瀧(吉田松陰の実母)が亡くなったとき
葬儀執行委員長をつとめた黙雷と同席したとき、
勝海は「勤王事」の書を甚く気に入り家宝として頂いたと伝わる。
なお、「勤王事 二十一回寅」 について。思うに杉は二十一の象あり、吉田の字も、
また二十一の象あり、わが名は寅、寅は虎にぞくす。虎の徳は猛なり・・・・・(略)
2014年4月には直木賞作家であった故・古川薫さんも、
松陰の資料を求めて浄慶寺に来られました。
そのおりに関連する資料の島地黙雷・上坂勝海についても、
人脈関連図を手に歴史の場に参加してくださいとのコメントを残されています。
私は若き頃、古川さんが、みなと新聞(現・山口新聞)に連載していた記事を愛読していたことがあります。
もう一度、8月1日号を振り返ってみます。このとき私が紹介されています。
シティセールス
島地黙雷と、上坂勝海の関係図
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●黙雷の妻(八千代)は防府、明覚寺18代香川黙職の妹である
●黙雷の親族、楫取素彦の妻は吉田松陰の妹(美和子)で素彦は初代群馬県令を務めた。(知事のこと)
●勝海の母(マキ)は清末藩(藩主/毛利元純)の家老長沼氏の娘である。(写真は明治38年のもの)
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